天一国と銃(その九)、統一重工業からカー∙アームスへ

前回からの続きです。統一重工業で作られた工作機械を、世界的に販売することを主目的として出発したセイロが、1985年頃にかけて、どのように事業展開して行ったかをこれまで見てきました。

 

∗新しい指導者の下、新たな方向性を模索する

 

1986年、アメリカ∙セイロは飯野貞夫氏を新たな指導者として迎え、新しい方向性に向かって再出発しました。それまでの拡大路線を改め、不採算営業所を閉鎖、統合するなどの収益性を重視した経営法が取り入れられました。それは極めて理にかなった決断だったと言えるでしょう。比較的業績の好調だった中古車販売と修理を行う、モータース部門の営業所は殆どそのまま残されましたが、営業所を共有するセールス、プロダクション、サービス、の三部門は大幅な縮小を余儀なくされ、残されたのはニューヨーク、ウースター(マサチューセッツ州)、シカゴ、ロサンジェルスの四箇所のみとなりました。

 

それもそのはず、自動車の販売修理などよりは遥かに専門的な設備、知識、経験、勘、それに加えて顧客の基盤などが不可欠の工作機械業界で、まともなビジネスを行っていくためには、セイロはあまりにも俄か作り(にわかづくり)な組織であったために、短期間のうちに販売や生産を軌道に乗せるのには、あまりにも無理があったということです。「信仰」だけでは乗り越えられない「現実」もあるのです。特にコロラド、ミネソタ州などの、地方で営業所を開いたメンバーたちは、大変な苦労を強いられました。本業では十分な収入が得られなかったために、工場に寝泊りしながら、週末には道路端や居酒屋などで花売りをするなどして、なんとか現金をつくりだし、それを生活費だけでなく営業所を維持するための資金に充てることまでしていたということです。

 

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セイロでかつて販売されていた横型工作機械 MACHー3A

 

ともかく新たな指導者の下、新体制で再出発を果たしたセイロであり、不採算営業所の閉鎖∙統合は、中心となるセールスマンや技術者が、核となる営業所に集中することで、良い結果をもたらすだろうとの期待をもたらしました。しかし以後5-6年にわたって、鳴かず飛ばずの状態が続くことになります。その大きな理由は、セイロ内の各部門間に横たわる歪んだ体制にあったのでした。具体的にはセールス部門の大幅な赤字をプロダクションとモータースの収入でなんとか賄うという状態が、恒常的に続いたということです。何故そこまでしてセールスを生かしておかなければならなかったかといえば、セイロの目的は、「統一重工業で作られた工作機械を、世界的に販売すること」で成し遂げられる、という「信仰」を、社長をはじめ、多くのメンバーが受け入れていたからに他なりません。だからこそプロダクションやモータース部門は、セールス部門の為に血を流し続けるのが「信仰」であると思い込んでいたということです。しかしお父様のセイロに対する願いは、工作機械の販売だけにあったのではなかったということは、後に国進様が明らかにしてくださいました。

 

∗国進様、セイロの新社長に任命される

 

無類の鉄砲好きである国進様は、ご自身が本当に手にしたいと思っていた銃が、実はどのメーカーからも販売されていないことを知り、自らその設計∙製作することを思いつきました。ポケットにすっぽり入ってしまうほど小型で、それでいて威力や信頼性において、他の銃にも全く引けを取らないというものです。その構想を実現化するために、試作に取り掛かろうとしたわけですが、そこで必要になってきたのが金属加工を行う工作機械や工具、それに金属加工の経験者のアドバイスや具体的なサポートでした。彼がニューヨークにあるイーストサン∙ビルディングに入居していたセイロの工場に通うようになったのも、そうした必然からだったのです。前後の事情からして、1991年頃と思われます。

 

そうこうしている中、真のお父様が、国進様を新たなセイロの社長として任命されました。1992年のことです。メンバーにとっては青天の霹靂であったかもしれません。しかし自ら設計した銃の商品化を構想した国進様にとって、セイロの社長に就任する事はむしろ自然な流れであったとも言えるでしょう。なぜならセイロは統一重工業の流れを汲む企業であり、その統一重工業は銃の生産をもって出帆したという経緯があるからです。

 

国進様が社長に就任された直後、一つの大きな変化がセイロの運営にもたらされました。これまで摂理の中心とみなされ、たとえ大きな損失を出し続けたとしても、維持していかなければならないと考えられてきた工作機械のセールス部門を閉鎖するということでした。これによってセールス部門で働いていた多くのメンバーは、解雇か配置換えという憂き目に会うことになります。それは経営者にとっては苦渋の決断だったことでしょう。しかしセイロは、摂理的目的があるとは言え、利益をもって維持、発展させていく企業である以上、それ以外の選択の余地は無かったと思われます。

 

また、セールス部門を閉鎖する事で、本来のセイロの行くべき方向性を見失ってしまうのではと、多くのメンバーが危惧したはずです。ところが国進様が意外な事実を明らかにしてくださいました。それはセイロが出発した時に(1981年)、お父様がメンバーにくださったみ言葉に関してでした。セイロにとって最も重要視すべきは「販売」であると、通訳者を通して語られたみ言葉に沿って、たとえ赤字を出しながらも続けてきた工作機械セールス部門だったのですが、実はその時お父様の使われた単語は「販売」でなく「市場(しじょう)」だったことが、国進様がお父様に再確認することで判明したのです。通訳者の誤訳であったことが十年以上たって始めて明るみに出たということでした。

 

「販売」は単に物を売るということですが、「市場」とは顧客の要望を汲み取って、顧客を満足させる質の高いサービスを誰よりも安価に提供することで競争に勝ち抜いていける場所です。それはセールスだけでなく、プロダクション、サービス、モータースというセイロの全ての部門にも適用すべきビジネスの原則です。そういう意味でお父様はそのみ言葉をくださったのでした。

 

かくして印鑑、壷、多宝塔、はては珍味に至るまで、「売ること」こそが神の御旨であり、人格完成の近道であると信じて疑わなかった我々日本人食口にとって、「販売こそがセイロ」という方向性は、いかにも簡単に受け入れられ、十年以上にわたって迷走を続ける原因になっていたのですが、それが国進様によって、ようやく正されることになったのです。つまり資源や人材が、より利益を生み社の発展に寄与できる部門に集中して配置され、さらに不必要な人材などはカットしてゆくという改革が、新社長の下で推し進められていったということです。

次回へ続きます

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