国家のあるべき姿、「国体」とは?

Pleadge of Allegiance1.jpg                                <国家に忠誠を誓う、新たに市民権を得た人々>

過去数回にわたって、合衆国憲法の一部である権利章典に関する記事を書いた。憲法とはもちろん国の最高法であり、その国のあらゆる法律は憲法に合致するように作られている(ことになっている)。したがって、私たちの社会的行動がそれらの法律で規定されるという点において、国の在り方を定義しているのが、まさに憲法だと言えるだろう。ちなみに法案を提出し可決するのは議会の仕事であり、それが合憲であるか無いかを判断するのは司法の役割だ。しかし憲法だけでは定義しきれない、ある意味で国民の暗黙の了解とも言える内容が存在しているという事実に私たちは気づかされる。しかもそれは、憲法が制定される以前から厳然としてそこにあるのである。日本ではそれを「国体」という言葉で表している。「天皇を中心とした皇国が日本の国体である」というような言い方をする。そのように「国体」という言葉自体は、そもそも皇国史観に基づいた日本という国の在り方を示しているのだが、私はその概念が、日本以外の国でも当てはまるのではないかと考えている。アメリカで言えば、キリスト教に基づいた国家観が、まさにその国体に相当するのではないだろうか。以下に考察してみた。

 

【「忠誠の誓い」で始まる連邦議会

私ごとだが、つい最近、三十年以上在住したアメリカの市民権を妻と共に取得した。書類を費用と共に移民局に送付し、審査、試験、面接を受け、最後に市民になるための儀式に参加して初めて市民権が授与される。その儀式の中で唱えるのが”Pledge of Allegiance”(忠誠の誓い)だ。アメリカの連邦議会はこの忠誠の誓いで始まるし、学校や公的な行事でも頻繁に暗誦されている。訳文は次のようになる。

「私はアメリカ合衆国国旗と、それが象徴する、万民のための自由と正義を備えた、分割すべからざる神の下の一つの国家である共和国に、忠誠を誓います。」

注目すべきは「神の下の一つの国家」とい文言(もんごん)が入っていることだ。原語では, “One Nation Under God” であり、ご存じのように大文字で始まる”God” はキリスト教の神を指す。これをアメリカの市民権を得ようとする人たちは、仏教徒だろうが、イスラム教徒だろうが、無神論者だろうが儀式の中で唱えなければならない。

 

【「忠誠の誓い」は違憲?

ところがである。合衆国憲法修正条項第1条は、国民の、いかなる宗教を実践する、或いは何も実践しない自由を保証しているだけでなく、連邦議会の国教を制定することをも禁じている。条文は次のとおりだ。

「連邦議会は、国教を定めまたは自由な宗教活動を禁止する法律、言論または出版の自由を制限する法律、ならびに国民が平穏に集会する権利および苦痛の救済を求めて政府に請願する権利を制限する法律は、これを制定してはならない。」

ウィキペディアによれば「国教」とは「国家が保護し活動を支援する宗教」ということだが、国の公的な式典で唱えられる「忠誠の誓い」の中に、キリスト教の「神」の名が入っているということは、「国家が保護し活動を支援」していることにならないのだろうか?

 

【キリスト教に基づくアメリカの「国体」

アメリカのキリスト教と言っても、大きく分類すればカソリックとプロテスタントに別けられ、プロテスタントも福音派や超教派など多くの派に分類されているのが現状だ。また熱心な信徒もいれば、聖書さえ通読したことのない、建前だけの自称クリスチャンもいることだろう。だが大雑把に言って約8割の国民がキリスト教徒であるとされるアメリカはやはりキリスト教国と言って間違いではないだろう。

 

【理神論者によって起草された合衆国憲法

アメリカがキリスト教国であることは、1620年、現在のマサチューセッツ州プリマスに辿りついた清教徒たちによって開拓された歴史を見てもうなづける。実際には、メイフラワー号に乗っていた100人ほどのうち, 信仰の自由を求めて新大陸に渡った清教徒は35人のみで、残りは一旗揚げようとやって来た、信仰とは縁の薄い人々だったという。本国で、旧態然とした嫌気のさす信仰に縛られているよりは、新たな地で金儲けにいそしみたい、つまり「信仰からの自由」を求めて来たというのが、彼らの実態であったようだ。またその後150年程経ってアメリカは独立を果たすが、その時、主導的な立場で活躍した建国の父たちの多くはキリスト教徒というよりは、むしろ理神論者たちであったとされる。合衆国憲法も彼らによって起草されたがゆえに、「神」「創造主」「キリスト」などの文言を含まない、かなり世俗的な内容になった。とは言え、敬虔なキリスト教徒は新大陸にしっかりと根を下ろし、その教えや伝統、文化は一般国民の間に深く浸透していった。だからこそ建国の父たちも、アメリカのキリスト教に基づいた「国体」を無視して国造りを進めていくことは出来なかったのであろうと推察する。

 

【アメリカの「国体」を表す「忠誠の誓い」

そのようにアメリカの歴史を調べてみれば、キリスト教は、国家が形成される遥か以前から、人々の間に信仰され、絶大な影響を及ぼしていたことが分かる。人々はその教えに従って家庭を築き、子女を教育し、コミュニティーを作り上げていった。やがて対外的により大きな組織、つまり国家をつくる必要に迫られて、植民地から独立国家が誕生した。建国の父たちは、その国家を、キリスト教徒だけの排他的な国家とするのではなく、国のルールを守りさえすれば、どのような宗教、思想を持った人々をも受け入れることができるようにするための憲法を制定した。政教分離が明確にその憲法で示されたということだ。そのほうが理神論者であった建国の父たちには、むしろ都合が良かったのかもしれない。しかしそのような世俗的憲法が制定されたとしても、それ以前から存在していた、大多数の国民の間に根付くキリスト教的価値観は、否定しようとしても否定しきれなかった。それが「忠誠の誓い」として残されるようになったのではないだろうか。言い換えれば、アメリカという国家を形成するために、最も大きな功績を残したキリスト教徒に敬意を表すという意味で、「忠誠の誓い」が、今日に至るまで、公的な式典や行事で暗誦され続けているのではないかと思う。それが、神の下の一つの国家 “One Nation Under God” という言葉で表現されていると考察できる。だが実際には今日、この「忠誠の誓い」を公的な場で唱えることを拒む動きが、国民の間に出てきていることは非常に残念なことだ。

 

【憲法以前にすでにあった「国体」

ジョン∙ロックの社会契約論的な考えを用いれば、国家が形成される以前に個人、家庭、コミュニティーが存在していなければならない。ならば、そこには定まった宗教、文化、伝統がすでにつくられていたということになる。日本で「国体」と呼ばれるものが、それに該当することはすでに述べた。そうした人々が社会契約を結び、つくられる国家はその後に来る。そして、その時に憲法が制定される。だから憲法で定義された国が宗教、文化、伝統をつくるのではなく、宗教、文化、伝統が、うがった見方をすれば単に人々の集合体でしかない「国家」を形づくることになる。アメリカではそれらの宗教、文化、伝統がキリスト教に基づくものであったということなのだろう。

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