国家のあるべき姿、「国体」とは?

Pleadge of Allegiance1.jpg                                <国家に忠誠を誓う、新たに市民権を得た人々>

過去数回にわたって、合衆国憲法の一部である権利章典に関する記事を書いた。憲法とはもちろん国の最高法であり、その国のあらゆる法律は憲法に合致するように作られている(ことになっている)。したがって、私たちの社会的行動がそれらの法律で規定されるという点において、国の在り方を定義しているのが、まさに憲法だと言えるだろう。ちなみに法案を提出し可決するのは議会の仕事であり、それが合憲であるか無いかを判断するのは司法の役割だ。しかし憲法だけでは定義しきれない、ある意味で国民の暗黙の了解とも言える内容が存在しているという事実に私たちは気づかされる。しかもそれは、憲法が制定される以前から厳然としてそこにあるのである。日本ではそれを「国体」という言葉で表している。「天皇を中心とした皇国が日本の国体である」というような言い方をする。そのように「国体」という言葉自体は、そもそも皇国史観に基づいた日本という国の在り方を示しているのだが、私はその概念が、日本以外の国でも当てはまるのではないかと考えている。アメリカで言えば、キリスト教に基づいた国家観が、まさにその国体に相当するのではないだろうか。以下に考察してみた。

 

【「忠誠の誓い」で始まる連邦議会

私ごとだが、つい最近、三十年以上在住したアメリカの市民権を妻と共に取得した。書類を費用と共に移民局に送付し、審査、試験、面接を受け、最後に市民になるための儀式に参加して初めて市民権が授与される。その儀式の中で唱えるのが”Pledge of Allegiance”(忠誠の誓い)だ。アメリカの連邦議会はこの忠誠の誓いで始まるし、学校や公的な行事でも頻繁に暗誦されている。訳文は次のようになる。

「私はアメリカ合衆国国旗と、それが象徴する、万民のための自由と正義を備えた、分割すべからざる神の下の一つの国家である共和国に、忠誠を誓います。」

注目すべきは「神の下の一つの国家」とい文言(もんごん)が入っていることだ。原語では, “One Nation Under God” であり、ご存じのように大文字で始まる”God” はキリスト教の神を指す。これをアメリカの市民権を得ようとする人たちは、仏教徒だろうが、イスラム教徒だろうが、無神論者だろうが儀式の中で唱えなければならない。

 

【「忠誠の誓い」は違憲?

ところがである。合衆国憲法修正条項第1条は、国民の、いかなる宗教を実践する、或いは何も実践しない自由を保証しているだけでなく、連邦議会の国教を制定することをも禁じている。条文は次のとおりだ。

「連邦議会は、国教を定めまたは自由な宗教活動を禁止する法律、言論または出版の自由を制限する法律、ならびに国民が平穏に集会する権利および苦痛の救済を求めて政府に請願する権利を制限する法律は、これを制定してはならない。」

ウィキペディアによれば「国教」とは「国家が保護し活動を支援する宗教」ということだが、国の公的な式典で唱えられる「忠誠の誓い」の中に、キリスト教の「神」の名が入っているということは、「国家が保護し活動を支援」していることにならないのだろうか?

 

【キリスト教に基づくアメリカの「国体」

アメリカのキリスト教と言っても、大きく分類すればカソリックとプロテスタントに別けられ、プロテスタントも福音派や超教派など多くの派に分類されているのが現状だ。また熱心な信徒もいれば、聖書さえ通読したことのない、建前だけの自称クリスチャンもいることだろう。だが大雑把に言って約8割の国民がキリスト教徒であるとされるアメリカはやはりキリスト教国と言って間違いではないだろう。

 

【理神論者によって起草された合衆国憲法

アメリカがキリスト教国であることは、1620年、現在のマサチューセッツ州プリマスに辿りついた清教徒たちによって開拓された歴史を見てもうなづける。実際には、メイフラワー号に乗っていた100人ほどのうち, 信仰の自由を求めて新大陸に渡った清教徒は35人のみで、残りは一旗揚げようとやって来た、信仰とは縁の薄い人々だったという。本国で、旧態然とした嫌気のさす信仰に縛られているよりは、新たな地で金儲けにいそしみたい、つまり「信仰からの自由」を求めて来たというのが、彼らの実態であったようだ。またその後150年程経ってアメリカは独立を果たすが、その時、主導的な立場で活躍した建国の父たちの多くはキリスト教徒というよりは、むしろ理神論者たちであったとされる。合衆国憲法も彼らによって起草されたがゆえに、「神」「創造主」「キリスト」などの文言を含まない、かなり世俗的な内容になった。とは言え、敬虔なキリスト教徒は新大陸にしっかりと根を下ろし、その教えや伝統、文化は一般国民の間に深く浸透していった。だからこそ建国の父たちも、アメリカのキリスト教に基づいた「国体」を無視して国造りを進めていくことは出来なかったのであろうと推察する。

 

【アメリカの「国体」を表す「忠誠の誓い」

そのようにアメリカの歴史を調べてみれば、キリスト教は、国家が形成される遥か以前から、人々の間に信仰され、絶大な影響を及ぼしていたことが分かる。人々はその教えに従って家庭を築き、子女を教育し、コミュニティーを作り上げていった。やがて対外的により大きな組織、つまり国家をつくる必要に迫られて、植民地から独立国家が誕生した。建国の父たちは、その国家を、キリスト教徒だけの排他的な国家とするのではなく、国のルールを守りさえすれば、どのような宗教、思想を持った人々をも受け入れることができるようにするための憲法を制定した。政教分離が明確にその憲法で示されたということだ。そのほうが理神論者であった建国の父たちには、むしろ都合が良かったのかもしれない。しかしそのような世俗的憲法が制定されたとしても、それ以前から存在していた、大多数の国民の間に根付くキリスト教的価値観は、否定しようとしても否定しきれなかった。それが「忠誠の誓い」として残されるようになったのではないだろうか。言い換えれば、アメリカという国家を形成するために、最も大きな功績を残したキリスト教徒に敬意を表すという意味で、「忠誠の誓い」が、今日に至るまで、公的な式典や行事で暗誦され続けているのではないかと思う。それが、神の下の一つの国家 “One Nation Under God” という言葉で表現されていると考察できる。だが実際には今日、この「忠誠の誓い」を公的な場で唱えることを拒む動きが、国民の間に出てきていることは非常に残念なことだ。

 

【憲法以前にすでにあった「国体」

ジョン∙ロックの社会契約論的な考えを用いれば、国家が形成される以前に個人、家庭、コミュニティーが存在していなければならない。ならば、そこには定まった宗教、文化、伝統がすでにつくられていたということになる。日本で「国体」と呼ばれるものが、それに該当することはすでに述べた。そうした人々が社会契約を結び、つくられる国家はその後に来る。そして、その時に憲法が制定される。だから憲法で定義された国が宗教、文化、伝統をつくるのではなく、宗教、文化、伝統が、うがった見方をすれば単に人々の集合体でしかない「国家」を形づくることになる。アメリカではそれらの宗教、文化、伝統がキリスト教に基づくものであったということなのだろう。

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「権利章典」に関する考察

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天一国憲法の「原則2」権利1から10まで謳われている内容は、アメリカ合衆国憲法修正条項の1から10までをそのままコピペしたものであり、一般には「権利章典」と呼ばれている。この権利章典が、アメリカ合衆国の世界をリードする民主主義国であり続けるために果たした役割は極めて大きく、建国の父たちの先見性には今更ながら敬意を表さざるを得ない。ここでは信仰の自由、武器携帯の保証や人権の不可侵を成文化した権利章典が、どのような思想に基づき、どのような過程を経て成立していったかを考察してみることにする。それが天一国憲法の理解を深める上でも大いに役立つと信じるからだ。

 

合衆国憲法成立から4年後に加えられた権利章典

国の最高法である合衆国憲法は1787年に批准(ひじゅん)された。バージニア州の代議員で第4代大統領となり、「憲法の父」とも呼ばれたジェームス∙マディソンがその起草に大きくかかわった。多くの人々は、新憲法の下では、具体的に中央政府に与えられていない権限はすべて国民に与えられるため、個人の権利を保障する必要はないと考えた。一方、英国による専制政治がまだ記憶に新しいため、すべての国民に保障される個人の権利を明記することを要求する人々もいた。当時駐仏大使であったトマス・ジェファソンは、本国のジェームズ・マディソンに宛てた書簡で、次のように述べた。「権利章典は、全般的にも個別にも地球上のあらゆる政府に対して国民の有する権利であり、正当な政府ならば、それを拒否したり、あるいは推論に任せたりすべきではない。」

この意見は直ちに支持され、1789年に開かれた第1回連邦会議に12の修正案として提出された。そのうち2つは批准されなかったが、1791年の議会で残る10の修正条項が4分の3の賛成を得て批准され、Bill Of Rights(権利章典)と呼ばれるようになった。合衆国憲法成立後、4年後のことである。

 

世俗的な合衆国憲法?】

合衆国憲法は、キリスト教的価値観を土台に作られたと言われる。しかし奇妙なことに、修正条項第一条では、連邦議会は国教を定めることを禁止している。つまりキリスト教はアメリカの国教などではないということを憲法は宣言している。 それどころか合衆国憲法には「創造主」「神」「キリスト」に対する言及すら無い。それゆえに合衆国憲法は、世界でも稀にみる「世俗的」な憲法だと評する人々もいる。この一見矛盾ともとれる内容をどのように理解したらよいのだろう。

 

【ジョン∙ロックの政治論

王権神授説が当然とされていた中世から近世にかけては、被支配階級が支配階級を革命で打ち倒すなどとは到底思いもよらぬことだった。たとえ支配階級による圧政に多くの人々が苦しめられていたとしてもだ。しかし、支配者には絶対に服従するのが道理だと考えられていた時代においても、やがて民衆の我慢は限界に達し、結果として人々は新たな政治体制を模索するようになる。イギリスでは17世紀、名誉革命によって立憲君主制と議会制民主主義の道が開かれ、続いて18世紀にはアメリカ独立革命やフランス革命が勃発する。革命とはすなわち権力を支配階級から被支配階級が奪い取ることに他ならないが、そのために不可欠なのが革命理論ということになるだろう。すなわち権力の所在を強引に移動させるには、そのことを正当化する理由が必要になってくるということだ。革命理論無しに人々を団結させ、革命を成功させることはできない。英国による専制政治からアメリカを独立に導くのに最も大きな役割を果たしたのがジョン∙ロック(1632-1704)の政治論だといわれる。

 

【社会契約思想と自然権

ジョン∙ロックは社会契約思想を用いて政治論を展開した。彼の示した考え方として特に重要なものに、すべての人々が等しく持つとされる「自然権」(生命、幸福、健康、自由、財産などの私的所有権)がある。彼はその権利が、一人一人が創造主である神から託された使命を果たすために、生まれながらにして賦与された当然の権利であるとした。ジョン∙ロックによれば、自然状態、つまりまだ国家が誕生する以前においては、それらの私的権利が十分に保護され得ないため、人々は国家を作り、一人一人の持つ権利の一部を国家に「信託」して、より大きな権力を持つ組織とした。すなわち国家の持つ強大な権力は、もともとは個人に帰属するものであり、国家の目的と義務は、その個人から信託された権力を用いて、国民一人一人の私的所有権を最大限に高めることにあると主張したのである。このように個人と国家が契約を結ぶことで成立する国家観が「社会契約思想」であり、社会契約思想と自然権を結びつけたジョン∙ロックの思想こそが、今日の普遍的価値観であるところの「民主主義」の根拠となった。

 

【抵抗権

更にジョン∙ロックはこうも主張した。もし権力を手中にした統治者が、国民の権利を守るためではなく、統治者自身、あるいは統治者の息のかかった一部の者たちの私利私欲の為だけにその権力を乱用した場合、本来の権力の持ち主であり、それを国家に信託した国民は、その権力を悪辣な統治者から取り上げる権限を有していると。それをジョン∙ロックは「抵抗権」と呼んだ。抵抗権とは要するに、権力を支配階級から被支配階級が奪い返すことを正当化する権限であるので、時に「革命権」とも呼ばれる。トマス・ジェファソンによって起草された独立宣言にその思想は色濃く反映している。

 

【国民が国家を管理、監視するための権利章典

「法」という言葉に対する我々のイメージは、統治者が「あれをしろ」「これはするな」と民衆を管理、監督するるために存在しているもの、ということだろう。実際に多くの法律はそのように作られている。例えば「高速道路は65マイル以上のスピードで走るな」とか「ものを買ったら消費税を払え」と言った具合だ。しかし権利章典ではこの立場が全く逆転している。つまり国民が本来持っている権利を国家が蹂躙しないように、国家あるいは統治者を縛り付け、監視する目的で権利章典は書かれているということだ。そのような観点からもう一度権利章典を読み返していただきたい。なるほどと合点されることだろう。

 

キリスト教的価値観に基づく権利章典

これまで見てきたように、自然権と抵抗権を保証するために成文化されたものが、まさに権利章典だと言えるだろう。更にジョン∙ロックの主張したように、それらの権利が創造主、神に由来することを認めることによって、キリスト教的価値観が合衆国憲法に織り込まれることとなった。たとえ「創造主」「神」「キリスト」という文言(もんごん)が憲法の中に使われていなくてもである。なぜあらゆる人々は、たとえ独裁政権のもとにいたとしても、民主主義によってもたらされる、生命、幸福、健康、自由、財産などの私的所有権の保証を求めるようになるのだろう。それらの権利が、創造主が私たちに等しく与えて下さった良き贈り物であることを、信仰のあるなしにかかわらず、人々は本心で知っているからではないだろうか。

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キリスト教に仕掛けられた罠

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前回の記事では、今取り沙汰されている、エルサレムにおける、ユダヤ第三神殿の再建が、全く聖書的ではないということを論じました。また、それに加えてユダヤ人は、主イエスを殺害した時点で、すでに選民としての資格を永遠に失ってしまっていること、更に、そうした事実を受け入れず、第三神殿の再建を切望し、異常なほどにイスラエルに肩入れしているのが、ディスペンセーション主義に基づいたキリスト教シオニストであった、ということにも言及しました。

 

我々は今、人類の本当の敵は誰なのかをはっきりと認識しなければならない時に来ています。キリスト教徒はその本来の敵に立ち向かう、最も強力な群れであるべきです。ところが現在はその力を失いつつあります。狂気の思想、シオニズムは、キリスト教シオニズムとユダヤ教シオニズムとに分けて考察する必要があります。片やイエスをメシアとして信じ、片やイエスに反逆する反キリストだということを忘れてはなりません。

 

これまで論じたように、創造本然の神ヤーウェは、もはやユダヤ教徒と共にはおられません。だとしたら彼等ユダヤ人が、唯一神として崇拝している神とは一体何なのでしょうか。一元論に基づく信仰によれば、あらゆる森羅万象は、「創造主」と「被造物」という、二つの事象に分類されます。すなわち創造本然の神以外のものを崇拝するということは、結果的に被造物を崇拝することになってしまうのです。ですから端的に言って、反キリスト的ユダヤ教、タルムード∙ユダヤ教は偶像崇拝、ルーシファー崇拝、あるいは悪魔崇拝教という結論に至らざるを得ません。

 

尚、ユダヤ人を論じる時、よく引き合いに出されるのが、スファラディーとアシュケナジーという、出身の違いによる、ステレオタイプ的な見方です。前者が善玉で、後者が悪玉であるというように。私の考えでは必ずしもその考えは当てはまらないと思っています。と言うのも、アシュケナジー∙ユダヤ人の家庭に生まれ、クリスチャンに改宗した人を私は何人か知っていますが、彼等はどこから見ても立派なクリスチャンです。問題は出身ではなく、どういう信仰をもっているかに尽きると思います。そういう意味において、聖書ではなく、タルムードに最高権威があると主張する異端的ユダヤ教(人)を、ここではタルムード∙ユダヤ教(人)と呼ぶことにします。

 

そのタルムード∙ユダヤ人が、創造本然の神以外の「神」を拝んでいるならば、パレスチナの地にイスラエル国を再興し、第三神殿を再建しようというシオニズムそのものが、ルーシファー、すなわちサタンの理想郷を建設する目的で進められている運動だということになるのです。イスラエルを新世界秩序の本拠地にしよう、と企んでいるということでしょう。

 

そして、タルムード∙ユダヤ人は、彼等の(サタンの)理想郷を建設する運動を進めるにあたって、最も障害になるのがキリスト教徒であることを知るに及んで、彼等を無力化するための策を実行に移しました。彼らが好んで使う手は、刺客を敵陣の中に密かに送り込んで、敵の気付かない間に秘密裏に計画を実行し、敵を内部から崩壊させる、ということです。

 

具体的に言えば、サタンが建設を進める、全人類を奴隷化するための、悪の帝国の建設の障害になるキリスト教徒に、「ユダヤ人は旧約、新約時代を通して、常に神の選民であり続けた」と思い込ませるような教義を、キリスト教の教えの中に忍ばせる、ということです。その結果、それを信じたキリスト教徒は、「ユダヤ人は、メシヤを持ち望むという、我々と同じ信仰目的を持った友人だ」、と考えるよう仕向けられたのでした。本当はサタンの本拠地を建設するのが、彼等の目的であったにもかかわらず、です。

 

その悪魔の教義こそがまさに、「ディスペンセーション主義」である、ということです。

 

そして、それらキリスト教徒たちは、単にタルムード∙ユダヤ人は彼等の敵で無いと思い込まされるだけでなく、逆に彼等を積極的に助けるように誘導されてきた来たのです。まさに、イスラエルのエルサレム首都認定に加担したアメリカの福音派クリスチャンは、そのような人たちでした。

 

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<ニューヨークで行われたユダヤ人とキリスト教徒による大会>

 

キリスト教シオニストたちは、タルムード∙ユダヤ人たちを評してこのように言います。

 

16世紀以降、世界の覇権は、スペイン、ポルトガルからオランダ、イギリスへと移行し、大陸を渡ってアメリカにやって来たが、まさにユダヤ人たちが移動する先々で、それらの国々が繁栄すると同時に、このような覇権の移動が起こっている歴史的事実を見ても、いかに彼等ユダヤ人が神から祝福を受けた特別な民であることがわかる、と。

 

しかし、考えてみてください。表向きは聖人を装いながら、謀略、恐喝、殺し、隠蔽、買収などの汚い手口を使いながら、影でこの世に君臨してきた人たちを、どうして神に祝福された特別な民と言えるのでしょうか? それとも、神に選ばれた民ならば、「神の摂理」のためと称して、目的達成のための、どのような手段を用いたとしても、神はお許しになる、とでも言うのでしょうか?

 

「ディスペンセーション主義」について書くつもりが、少々回り道してしまったようです。しかし本題に入る前に、どうしても押さえておかなければならないポイントを私なりにまとめてみました。

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キリスト教を骨抜きにするディスペンセーション主義

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トランプ大統領の重要な支持基盤の一つに福音派キリスト教徒がいます。2016年の大統領選では、実に彼等の80%以上がトランプに投票しました。またトランプ政権は2018年5月14日、イスラエルの建国70周年に合わせて、エルサレムをイスラエルの首都であると認定し、在イスラエル大使館をテルアビブからエルサレムに移転し、開設式典を行いましが、これも米国福音派の意向に沿って行われたとされています。

 

福音派キリスト教徒の中でも、とりわけ親イスラエル的であり、かつ、ユダヤ人がパレスチナの地に彼等の国を再建する事は、聖書の予言にかなっている、と信じる人々を指してキリスト教シオニストと呼んでいます。日本の著名なキリスト者の中でも、高原剛一郎や久保有政、古くは中田重治や内村鑑三(敬称略)などもそれらの一人です。そして彼等の多くが「ディスペンセーション主義」を信奉していることが知られています。

 

それらディスペンセーション主義者は、親イスラエルであること以外に、空中携挙を信奉しているという、際立った特徴があります。それではいったいディスペンセーション主義とは何なのでしょうか? 調べてみることにしましょう。

 

彼等の主張はこうです。すなわち、イスラエルという国がパレスチナの地に再興され、更にエルサレムのソロモン神殿があったのと全く同じ場所に第三神殿が建てられた後に、主イエスの再臨が起こりうると。

 

ちなみに第一神殿とは、紀元前十世紀、ソロモン王によって建設された本来の神殿であり、紀元前586年、イスラエルのバビロニア捕囚の際、バビロニアによって破壊されました。第二神殿は、紀元前516年, イスラエルがバビロニア捕囚から帰還した後に再建され、さらにヘロデ王によって増改築されたものを指しますが、それもまた紀元後70年、ローマとのユダヤ戦争によって破壊されましたが、その後再建されることなく今日に至っています。よって第三神殿は現存しておらず、まさにその再建を切望しているのがキリスト教シオニストであり、かつユダヤ教シオニストでもあるということです。

 

それらキリスト教徒たちは、主イエスに弟子たちが、世の終わりにはどのようなことが起こりうるのかを尋ねた時、

預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が聖なる場所に立つ。(マタイ24:15)

と言われたことを根拠に、世の終わり、再臨の前には、荒らす憎むべき者が聖なる場所、すなわち第三神殿に立たなければならず、そのためには第三神殿がその時点ですでに再建されていなければならないと主張します。

 

聖なる場所=第三神殿、という解釈を大前提とした上で、第三神殿の完成をもって、メシア再臨の条件が整うと考えているのです。

 

ここで、ユダヤ教シオニストの待ち望んでいるのは初臨のメシアであり、キリスト教シオニストとは異なる信仰を持っているはずなのに、第三神殿の必要性に関して彼等の思惑が一致しているという、奇妙な事実に気付かされます。

 

それでは本当に、パレスチナの地にイスラエル国の再建されることが、神の摂理にのっとった事なのでしょうか? また、ユダヤ民族は、旧約聖書によれば確かに神の選民であった事は疑う余地がありませんが、彼等は今日、すなわち新約の時代に至るまで、神に選ばれた特別な民であり続けているのでしょうか?

 

新約聖書の観点からすれば、答えは否です。

 

そう断言できる根拠は、マタイ21:33-43です。イエスの譬え話の一つですが、あるぶどう園の主人が農夫を雇って旅に出た後、収穫を受け取るために僕を送ったところ、農夫たちによって袋叩きに遭ったため、最後には彼の息子を送ったものの、僕たちと同じように捕らえられ、殺されてしまった、というものです。このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするかと、イエスが弟子たちに尋ねたところ、

「悪人どもを皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう。」(マタイ21:41)

と彼等は答え、イエスはそれに対し、

「それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。」(マタイ21:43)

と言われました。イエスはその譬え話のなかで、主人は神、僕は預言者、農夫はイエスを殺害するであろうユダヤ人、息子はイエス御自身、異邦人は(後の)キリスト教徒を指して言っておられる事は、火を見るより明らかです。

 

以上から、メシアを殺害したユダヤ人たちは、選民としての資格を剥奪され、その時点でもはや異邦人か、それ以下の立場に転落してしまったということです。よって反キリストの烙印を押されてしまった彼らは、摂理の一線から外されただけでなく、他の異邦人と同様に、悔い改めてイエスを受け入れない限り、もはや救いにはあずかれない、ということがこの聖句から理解できます。

 

ですからユダヤ人が、パレスチナの地にイスラエル国を再興することは、聖書的に何ら正当性が無いという結論になります。ましてや第三神殿を再建させる必要性も、当然の事ながら一切無いと言わざるを得ません。

 

にもかかわらず、キリスト教シオニストは、ユダヤ民族は選民としての特権を、旧約時代から新約時代に至るまで、引き続き持ち続けている、と信じているのです! 何という誤った信仰観でしょうか。彼らがそのような信仰を持つに至った主な原因は、結局ディスペンセーション主義のドグマ性によると言えるでしょう。

 

また、次の聖句からも、もはや神殿が再建される必要性のないことが理解できます。

あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買い取られたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。(コリント1、6:19-20)

つまりこの聖句の意味は、キリストの体は本神殿であり、キリストによって代価を払って買い取られた、すなわち購(あがな)われた私達の体は分神殿だということです。よって神殿の実体がすでに存在しているのに、どうしてこれ以上、箱物としての神殿を作る必要があるのでしょうか?

 

それではディスペンセーション主義という教義は、時代の流れの中で、必然的に現れたものなのでしょうか? それとも、何者かによって、ある目的のために、意図的に作り出されたものなのでしょうか。私は後者であると考えています。

 

次回は、ディスペンセーション主義の成り立ちと教義を分析して、そこにどのような罠が仕掛けられえいるのかを考察する予定です。そうすることで、それが単に宗教的な問題を提起するにとどまらず、今日の世界を統一支配しようと企む勢力、すなわち新世界秩序を標榜する人々が画策している様々な事がらと、がっつりと繋がっていたことが明らかになっていくはずです。

 

最後に、今、彼らシオニストが何を進めているのかを紹介したビデオのリンクを貼っておきました。いかにも聖書信仰にのっとって、全ての準備が行われているかのように見せかけています。

 

ディスペンセーション主義をより深く知ってみたいと思われた方はクリック。

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羊かやぎか? プロテスタントを分ける二つの潮流

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久々の投稿です。今回はキリスト教信仰に関する考察です。

 

先ずは新約聖書のマタイ25:32-46を引用します。

 25:32そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、 25:33羊を右に、やぎを左におくであろう。 25:34そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。(中略) 25:41それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。(中略)25:46そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」

 

羊は右に、やぎは左に置かれ、正しいもの(羊)は永遠の命に入り、のろわれたもの(やぎ)は永遠の刑罰を受けるとあります。羊は牧者を見分け、やぎはそうしないことから、創造主の呼びかけに応える人々と、それを無視する人々とを、それぞれ羊とやぎにたとえる事は、多くの方々がすでにご理解している通りです。

 

今日、多くの教派に分かれるキリスト教プロテスタントですが、大まかに分類すれば二つの潮流のあることが知られています。その二つとは、「福音派」と「リベラル、エキュメニカル派(超教派)」です。二つの潮流に分かれるという事は、一方を羊にたとえるならば、他方はやぎということになるのでしょうか?

 

多くの教派をたった二つに分類する事は、多少無理があるかもしれません。しかし分けられたそれぞれのグループに共通する主張を調べてみることで、キリスト教信仰とは何かという、最も根本的な命題を考え始めるきっかけになる事は間違いありません。それによって自分自身の信仰を省み、より正しい神観、キリスト観を持つことが出来るようになるためです。

 

では、それぞれの派の特徴を見ていくことにしましょう。

【福音派】

「福音派」の簡潔な意味は「福音に献身する者」です。福音主義の定義はいくつかあるようですが、大まかに言って、聖書の内容は、全て神からの啓示によって書かれたものであり、我々人間の理性や常識では説明できないような事柄であっても、神からのメッセージとして受け入れることで信仰が成立するとする主義です。すなわち人間の個人的な主観ではなく、神からの霊感を絶対視し、その神と人間との媒介となるのがまさに聖書であり、そこに最大の権威を置くというのが彼等の主張です。聖書を文字通り信じることから、保守的信仰と見られています。

 

善悪観や道徳観については、人間的観点からではなく、あくまでも聖書の中にその根拠を見出そうとするのが彼等の信仰姿勢であり、罪人の救済観に関しては、イエス∙キリストに拠らずには救いは絶対にもたらされないという主張から、他宗派、他信仰の人々からは、排他的、独善的とみなされる傾向があります。十全霊感説をとり、聖書の霊感が救いや信仰にとどまらず、科学や歴史の領域にまで及んでいるとする聖書観を持ちます。

 

(カトリック)教会に服従するのではなく、聖書に権威を置く福音的信仰は、16世紀のルターらによる宗教改革に端を発するものの、19世紀にかけて発達した自然科学や、人間の理性との整合性を重視したリベラル派やエキュメニカル派とは一線を画する、歴史的正統的信仰であることをあらわす語として「福音派」と呼ばれるようになりました。

 

福音派の信仰を持つ人々の中でも、特に政治的で、反同性愛、反妊娠中絶、反進化論、反共産主義、反フェミニズム、家庭重視、小さな政府、共和党支持などを熱烈に主張する人々は、他の意見を受け入れない過激で危険な信仰者というレッテルを貼る意味で「キリスト教原理主義者」とも呼ばれています。

 

アメリカでは、総人口の約4分の1が福音派だと言われています。トランプ大統領の最も大きな支持基盤であり、大統領選では福音派の80%以上がトランプ候補に投票しました。

 

トランプ政権は去る5月14日、イスラエルの建国70年周年に合わせて、エルサレムをイスラエルの首都であると認定し、在イスラエル大使館をテルアビブからエルサレムに移転し、開設式典を行いました。イスラエル首相ネタニヤフは、トランプ大統領に向け最大の謝意を表明し、両国の親密さをアピールしましたが、この政策は、米国福音派の意向に沿う形で行われたとされています。

 

福音派には、親イスラエル的な「キリスト教シオニスト」と呼ばれる人たちがいます。この勢力が今回のエルサレムの首都認定に一役買ったようですが、キリスト教の教義の一つ、「ディスペンセーション主義」を信奉する人たちがその勢力の中心となっているようです。福音派の信仰の一つとは言え、物議を醸すこの主義に対して、私は大変危惧を抱いている一人なのですが、これについては後日別記事で考察を行ってみたいと思っています。

 

【エキュメニカル派】

一方のエキュメニカル派(超教派)とは、「自由主義神学」を基に、あらゆる教派や、更にはキリスト教以外の宗教や思想とも協調する道を探る主義、信仰であり、彼らが重要視するのは、それぞれ個人の持つ理性や主観 であり、神の啓示は軽視される傾向があります。

 

また、科学的な見方(進化論等)を許容し、聖書に記されている天地創造ノアの箱舟バベルの塔、出エジプトにおけるさまざまな奇跡などは、単に「宗教的に有益な寓話」とみなしているようです。

 

更に彼等は、あらゆる宗教や宗派はその80-90% の教えを共有しており、それぞれの持つ、神学的見解であるとか、教義上の解釈などの「僅かな違い」を人間的努力により克服することで、共存できるようになると主張します。救済観に関しては、必ずしもイエス∙キリストの贖罪に拠らずとも人間の救いは可能であるとし、救いの方法は幾通りもありうるとします。結果として他宗派や他宗教に大変寛大な姿勢をとるのがエキュメニカル派の特徴です。

 

結局、自由主義神学の「自由」とは、他との協調のためなら、聖書を思いのままに解釈したり、また都合の悪い部分を削除することなどが、まったく自由であるという意味で用いられているのです。またそうすることによって、歴史を通して続けられてきた宗教戦争に終止符を打って、世界平和をもたらすことができると彼等は考えています。

 

1910年に行われた、エディンバラ宣教会議がエキュメニカル運動の出発点になりました。この会議からエキュメニカル派と福音派の分極化が生じたとされています。1948年, エキュメニカル派はスイス、ジュネーブを本拠地に世界教会協議会を発足させ、全世界的な組織を確立するに至りました。

 

世界的に活動するYMCA (The Young Men’s Christian Association1844年発足) や YWCA (The Young Women’s Christian Association1855年発足) エキュメニカル派キリスト教がその思想的なバックグラウンドとなっています。

 

【まとめ】

以上それぞれの宗派の特徴を簡単に要約してみましたが、ここからは私の個人的所感を書かせていただきます。これらの異なる信仰観を持つ二者のうち、福音派が「羊」で、エキュメニカル派が「やぎ」だという事は、もはや説明する必要も無いくらい明らかです。エキュメニカル主義は、言わばキリスト教の仮面をかぶったニューエイジ思想と言えます。なぜなら、その相対主義的善悪観や、イエス∙キリストの贖罪を軽視する姿勢などがそれを物語っています。また、さまざまな宗教の80-90%の共通部分をくっつけ合わせて一つにしようとするなど、実に浅はかです。それぞれの宗教宗派にとって、その残された10-20%の異なる部分こそが彼等にとって絶対に譲れない内容なのであって、それゆえに歴史を通してさまざまな宗教は熾烈な闘い続けてきたことを知るべきです。そのコアな部分を削り取ってしまったら、宗教には何が残ると言うのでしょうか?

信仰姿勢としての福音主義は正統派である、と見て良いと私は考えていますが、彼等の主張の中にも問題が無いわけではありません。そのひとつが先ほども挙げたディスペンセーション主義ですが、そのほかに「聖書無謬説」つまり、「聖書は完璧で、間違いは一つもない」とする説があります。福音主義と結びついたこの説には大変大きな落とし穴があると言えるでしょう。 これについても、いずれ記事に取り上げたいと考えています。

 

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