異端の教義、ディスペンセーション主義

rapture-1.jpg

ディスペンセーション主義に関する記事を書き始めて、今回が四回目となりました。いまだに本題に入っておらず、少々回り道をするかたちとなってしまいましたが、その特異な主義に対する理解を深めるために押さえるべき内容を、それらの記事を通して私なりに整理してみたつもりですので、まだお読みで無い方は、まずそちらに目を通されてから今回の記事を読まれることをお勧めします。

羊かやぎか? プロテスタントを分ける二つの潮流

キリスト教を骨抜きにするディスペンセーション主義

キリスト教に仕掛けられた罠

 

【ディスペンセーション主義の成り立ちと拡大】

 

ディスペンセーション主義の祖と見られているのが、イエズス会士にしてユダヤ人のマヌエル∙ラクンザ(1731-1801)です。スペイン語で書かれた彼の著書「栄光と威厳の中でのメシアの来臨」を英語に翻訳したのがエドワード∙アーヴィングで、それをキリスト教徒に広める役目を果たしたのがジョン∙ネルソン∙ダービーなる伝道師といわれています。

 

スコットランド人女性、オカルティストであり交霊術を行っていたマーガレット∙マクドナルドが幻で示されたという教会の携挙を、ダービーは教義として取り入れ、ディスペンセーション主義で言う「患難前携挙説」として体系化しました。

 

更にそれをアメリカにおいて拡大したのがサイラス•スコフィールドという神学者で、彼がジェイコブ•シフから資金の提供を受けながら完成させたのが、アメリカでも多くの人が所有するスコフィールド∙バイブルであり、それが、この神学の普及に大きな役割を果たしたということです。ムーディー聖書学院ダラス神学校、グレイス神学校などがこの神学に基づいて教育を行い、ディスペンセーション神学を支持する教職者を多数輩出しました。

 

ここで注目すべきは、神秘主義に傾倒するイエズス会に属するユダヤ人、ラクンザによって提唱されたディスペンセーション主義が、ブラヴァツキーによって創設されたオカルト組織、神智学とも繋がりがあるとされるジョン∙ネルソン∙ダービーによって広められ、アメリカの中央銀行、連邦準備制度(FRB)の設立にも加担した、今で言う深層国家、ないし影の政府の基台を作り上げた、いわく付きユダヤ人、ジェイコブ•シフによって援助され、出版されたスコフィールド∙バイブルを通して、キリスト教徒に浸透して言ったという事実です。

 

その一連の流れの背後に胡散臭さを感じない人はいないでしょう。 なぜディスペンセーション主義というキリスト教の教義の成立と拡大に、神秘主義、オカルト、ユダヤ教などの、反キリスト教的思想を持った人々が大きく関与してきたのかと。

 

 

【ディスペンセーション主義の教義】

 

その疑問に答えるためには、その教義とはどのようなものかを調べてみなければなりません。先ずは、ディスペンセーション主義を系統的に説明する、このテキストを参考に話を進めてまいりたいと思います。

 

テキストの7ページから12ページにかけて説明されている内容をかいつまんでみますと、ディスペンセーション主義では、アダムから摂理の完成、すなわち「御国の到来」までの歴史を七つの摂理期間として分割し、それぞれの期間で、神は、異なる中心人物を異なる摂理目的のために立て、そのための責任を負わせた中心人物にテストを課し、失敗をするのを見届けながら、裁きと恵みの両方を人類に施しつつ、最終的には「神の栄光」をあらわすようになる、とします。(下図を参照、用語はテキストと多少異なっていますが意味は同じ)

ディスペンセーション主義.jpg

また、この主義では、聖書を文字通り解釈することを前提にしていますが、これは全ての福音派に共通した主張といえます。

 
そしてもう一つの、この神学の際立った特徴として、テキストの7ページに書かれているような、「イスラエルと教会の区別」があります。 これはいったい何を意味するのかと言いますと、上図の「モーセ律法の時代」を担ったイスラエルの摂理は、イエスの来臨と共に終わってしまったのではなく、次の摂理である「教会による恵みの時代」すなわち、キリスト教を中心とした摂理の時代に入っても、そのイスラエルの神との契約は保たれつつ、最後の大患難の前に教会は携挙され、更に大患難の後の最終的な「御国の時代」になると、イスラエルも全て救われる、すなわち共に「神の栄光」を現すようになる、とします。

 

別な言い方をすれば、イスラエルを中心とした旧約時代の摂理が、新約時代になってキリスト教徒によって取って代わられたのではなく、神は、新約時代では「イスラエル」と「教会」という二つの異なるグループと、異なる契約を維持し続けてきたというのです。

 

我々は、キリスト教会に入り込んだ「トロイの木馬」とも言える、ディスペンセーション主義の二つのキーワード、「イスラエルと教会の区別」と「患難前携挙説」に注視しなければなりません。

 

神の一人子、イエスを殺害したユダヤ人は、すでに選民としての資格を永遠に失っている、ということはすでに言及しました。そればかりではありません。神に最も愛され用いられた人、あるいは民族が一たびその位置を離れてしまったならば、逆に神の最も忌むべきものとなってしまうのです。

 

私達はその例を聖書から学ぶことが出来ます。

 

ノアの子供たちのうち、最も祝福されていたハムと、天の摂理の重要な使命を持っていたと思われるその子カナンは、ハムが摂理に失敗した時、神からのろいを受け、「しもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」(創 9:25)と言われただけでなく、その後、歴史上初の権力者となり、バベルの塔を建設したニムロデや、(創10:8-9、11:1-9)神に反逆し、偶像崇拝教を奉じた大国、エジプトやバビロンなどは全てハムの子孫から出ているという事実です。

 

これと全く同じことがイエスを殺害したユダヤ人にも言えることでしょう。メシアを殺害することほど、神に反逆する大きな罪は無いということです。

 

「サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たち」(黙3:9)となってしまった彼等が、自らの失敗を覆い隠すために、ひねり出した神学が、「イスラエルと教会の区別」であり、それによってキリスト教徒は、ユダヤ人はいまだに神によって祝福された民族だと思い込まされるようになっただけでなく、彼等ユダヤ人が影でこの世を支配してきた悪事が暴かれないように、ユダヤ人の恐れるキリスト教徒の、悪の勢力と戦う意思を削ぐ目的で考え出されたのが「患難前携挙説」だったということです。つまり、ディスペンセーション主義に染まったキリスト教徒は、天だけを仰ぎ見、「携挙」を待ち望むことによって、地上のゴタゴタなど眼中に無くなるよう、まんまと仕向けられたのでした。

 

このように見ると、ディスペンセーション主義と言う神学が、キリスト教を無力化するために、意図的に編み出されたものだという結論に至らざるを得ません。それこそが、神秘主義、オカルト、ユダヤ教などの、反キリスト教的思想を持った人々が、この神学の教義の成立と拡大に大きく関わってきた理由です。まさに私達の目の前で霊的、実体的戦いが展開していると言えるでしょう。悪魔崇拝者、タルムード∙ユダヤ人に、私達キリスト教徒が勝利しなければ天国は訪れません。しかし敵はかなり手ごわいでしょう。私達はそのための、内外の準備を整えなければなりません。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ サンクチュアリ教会へ
にほんブログ村

キリスト教を骨抜きにするディスペンセーション主義

solomons_temple-1024x675-1024x585.jpg

トランプ大統領の重要な支持基盤の一つに福音派キリスト教徒がいます。2016年の大統領選では、実に彼等の80%以上がトランプに投票しました。またトランプ政権は2018年5月14日、イスラエルの建国70周年に合わせて、エルサレムをイスラエルの首都であると認定し、在イスラエル大使館をテルアビブからエルサレムに移転し、開設式典を行いましが、これも米国福音派の意向に沿って行われたとされています。

 

福音派キリスト教徒の中でも、とりわけ親イスラエル的であり、かつ、ユダヤ人がパレスチナの地に彼等の国を再建する事は、聖書の予言にかなっている、と信じる人々を指してキリスト教シオニストと呼んでいます。日本の著名なキリスト者の中でも、高原剛一郎や久保有政、古くは中田重治や内村鑑三(敬称略)などもそれらの一人です。そして彼等の多くが「ディスペンセーション主義」を信奉していることが知られています。

 

それらディスペンセーション主義者は、親イスラエルであること以外に、空中携挙を信奉しているという、際立った特徴があります。それではいったいディスペンセーション主義とは何なのでしょうか? 調べてみることにしましょう。

 

彼等の主張はこうです。すなわち、イスラエルという国がパレスチナの地に再興され、更にエルサレムのソロモン神殿があったのと全く同じ場所に第三神殿が建てられた後に、主イエスの再臨が起こりうると。

 

ちなみに第一神殿とは、紀元前十世紀、ソロモン王によって建設された本来の神殿であり、紀元前586年、イスラエルのバビロニア捕囚の際、バビロニアによって破壊されました。第二神殿は、紀元前516年, イスラエルがバビロニア捕囚から帰還した後に再建され、さらにヘロデ王によって増改築されたものを指しますが、それもまた紀元後70年、ローマとのユダヤ戦争によって破壊されましたが、その後再建されることなく今日に至っています。よって第三神殿は現存しておらず、まさにその再建を切望しているのがキリスト教シオニストであり、かつユダヤ教シオニストでもあるということです。

 

それらキリスト教徒たちは、主イエスに弟子たちが、世の終わりにはどのようなことが起こりうるのかを尋ねた時、

預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が聖なる場所に立つ。(マタイ24:15)

と言われたことを根拠に、世の終わり、再臨の前には、荒らす憎むべき者が聖なる場所、すなわち第三神殿に立たなければならず、そのためには第三神殿がその時点ですでに再建されていなければならないと主張します。

 

聖なる場所=第三神殿、という解釈を大前提とした上で、第三神殿の完成をもって、メシア再臨の条件が整うと考えているのです。

 

ここで、ユダヤ教シオニストの待ち望んでいるのは初臨のメシアであり、キリスト教シオニストとは異なる信仰を持っているはずなのに、第三神殿の必要性に関して彼等の思惑が一致しているという、奇妙な事実に気付かされます。

 

それでは本当に、パレスチナの地にイスラエル国の再建されることが、神の摂理にのっとった事なのでしょうか? また、ユダヤ民族は、旧約聖書によれば確かに神の選民であった事は疑う余地がありませんが、彼等は今日、すなわち新約の時代に至るまで、神に選ばれた特別な民であり続けているのでしょうか?

 

新約聖書の観点からすれば、答えは否です。

 

そう断言できる根拠は、マタイ21:33-43です。イエスの譬え話の一つですが、あるぶどう園の主人が農夫を雇って旅に出た後、収穫を受け取るために僕を送ったところ、農夫たちによって袋叩きに遭ったため、最後には彼の息子を送ったものの、僕たちと同じように捕らえられ、殺されてしまった、というものです。このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするかと、イエスが弟子たちに尋ねたところ、

「悪人どもを皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう。」(マタイ21:41)

と彼等は答え、イエスはそれに対し、

「それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。」(マタイ21:43)

と言われました。イエスはその譬え話のなかで、主人は神、僕は預言者、農夫はイエスを殺害するであろうユダヤ人、息子はイエス御自身、異邦人は(後の)キリスト教徒を指して言っておられる事は、火を見るより明らかです。

 

以上から、メシアを殺害したユダヤ人たちは、選民としての資格を剥奪され、その時点でもはや異邦人か、それ以下の立場に転落してしまったということです。よって反キリストの烙印を押されてしまった彼らは、摂理の一線から外されただけでなく、他の異邦人と同様に、悔い改めてイエスを受け入れない限り、もはや救いにはあずかれない、ということがこの聖句から理解できます。

 

ですからユダヤ人が、パレスチナの地にイスラエル国を再興することは、聖書的に何ら正当性が無いという結論になります。ましてや第三神殿を再建させる必要性も、当然の事ながら一切無いと言わざるを得ません。

 

にもかかわらず、キリスト教シオニストは、ユダヤ民族は選民としての特権を、旧約時代から新約時代に至るまで、引き続き持ち続けている、と信じているのです! 何という誤った信仰観でしょうか。彼らがそのような信仰を持つに至った主な原因は、結局ディスペンセーション主義のドグマ性によると言えるでしょう。

 

また、次の聖句からも、もはや神殿が再建される必要性のないことが理解できます。

あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買い取られたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。(コリント1、6:19-20)

つまりこの聖句の意味は、キリストの体は本神殿であり、キリストによって代価を払って買い取られた、すなわち購(あがな)われた私達の体は分神殿だということです。よって神殿の実体がすでに存在しているのに、どうしてこれ以上、箱物としての神殿を作る必要があるのでしょうか?

 

それではディスペンセーション主義という教義は、時代の流れの中で、必然的に現れたものなのでしょうか? それとも、何者かによって、ある目的のために、意図的に作り出されたものなのでしょうか。私は後者であると考えています。

 

次回は、ディスペンセーション主義の成り立ちと教義を分析して、そこにどのような罠が仕掛けられえいるのかを考察する予定です。そうすることで、それが単に宗教的な問題を提起するにとどまらず、今日の世界を統一支配しようと企む勢力、すなわち新世界秩序を標榜する人々が画策している様々な事がらと、がっつりと繋がっていたことが明らかになっていくはずです。

 

最後に、今、彼らシオニストが何を進めているのかを紹介したビデオのリンクを貼っておきました。いかにも聖書信仰にのっとって、全ての準備が行われているかのように見せかけています。

 

ディスペンセーション主義をより深く知ってみたいと思われた方はクリック。

↓↓↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ サンクチュアリ教会へ
にほんブログ村

 

羊かやぎか? プロテスタントを分ける二つの潮流

was-jesus-christ-born-dec-25.jpg

久々の投稿です。今回はキリスト教信仰に関する考察です。

 

先ずは新約聖書のマタイ25:32-46を引用します。

 25:32そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、 25:33羊を右に、やぎを左におくであろう。 25:34そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。(中略) 25:41それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。(中略)25:46そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」

 

羊は右に、やぎは左に置かれ、正しいもの(羊)は永遠の命に入り、のろわれたもの(やぎ)は永遠の刑罰を受けるとあります。羊は牧者を見分け、やぎはそうしないことから、創造主の呼びかけに応える人々と、それを無視する人々とを、それぞれ羊とやぎにたとえる事は、多くの方々がすでにご理解している通りです。

 

今日、多くの教派に分かれるキリスト教プロテスタントですが、大まかに分類すれば二つの潮流のあることが知られています。その二つとは、「福音派」と「リベラル、エキュメニカル派(超教派)」です。二つの潮流に分かれるという事は、一方を羊にたとえるならば、他方はやぎということになるのでしょうか?

 

多くの教派をたった二つに分類する事は、多少無理があるかもしれません。しかし分けられたそれぞれのグループに共通する主張を調べてみることで、キリスト教信仰とは何かという、最も根本的な命題を考え始めるきっかけになる事は間違いありません。それによって自分自身の信仰を省み、より正しい神観、キリスト観を持つことが出来るようになるためです。

 

では、それぞれの派の特徴を見ていくことにしましょう。

【福音派】

「福音派」の簡潔な意味は「福音に献身する者」です。福音主義の定義はいくつかあるようですが、大まかに言って、聖書の内容は、全て神からの啓示によって書かれたものであり、我々人間の理性や常識では説明できないような事柄であっても、神からのメッセージとして受け入れることで信仰が成立するとする主義です。すなわち人間の個人的な主観ではなく、神からの霊感を絶対視し、その神と人間との媒介となるのがまさに聖書であり、そこに最大の権威を置くというのが彼等の主張です。聖書を文字通り信じることから、保守的信仰と見られています。

 

善悪観や道徳観については、人間的観点からではなく、あくまでも聖書の中にその根拠を見出そうとするのが彼等の信仰姿勢であり、罪人の救済観に関しては、イエス∙キリストに拠らずには救いは絶対にもたらされないという主張から、他宗派、他信仰の人々からは、排他的、独善的とみなされる傾向があります。十全霊感説をとり、聖書の霊感が救いや信仰にとどまらず、科学や歴史の領域にまで及んでいるとする聖書観を持ちます。

 

(カトリック)教会に服従するのではなく、聖書に権威を置く福音的信仰は、16世紀のルターらによる宗教改革に端を発するものの、19世紀にかけて発達した自然科学や、人間の理性との整合性を重視したリベラル派やエキュメニカル派とは一線を画する、歴史的正統的信仰であることをあらわす語として「福音派」と呼ばれるようになりました。

 

福音派の信仰を持つ人々の中でも、特に政治的で、反同性愛、反妊娠中絶、反進化論、反共産主義、反フェミニズム、家庭重視、小さな政府、共和党支持などを熱烈に主張する人々は、他の意見を受け入れない過激で危険な信仰者というレッテルを貼る意味で「キリスト教原理主義者」とも呼ばれています。

 

アメリカでは、総人口の約4分の1が福音派だと言われています。トランプ大統領の最も大きな支持基盤であり、大統領選では福音派の80%以上がトランプ候補に投票しました。

 

トランプ政権は去る5月14日、イスラエルの建国70年周年に合わせて、エルサレムをイスラエルの首都であると認定し、在イスラエル大使館をテルアビブからエルサレムに移転し、開設式典を行いました。イスラエル首相ネタニヤフは、トランプ大統領に向け最大の謝意を表明し、両国の親密さをアピールしましたが、この政策は、米国福音派の意向に沿う形で行われたとされています。

 

福音派には、親イスラエル的な「キリスト教シオニスト」と呼ばれる人たちがいます。この勢力が今回のエルサレムの首都認定に一役買ったようですが、キリスト教の教義の一つ、「ディスペンセーション主義」を信奉する人たちがその勢力の中心となっているようです。福音派の信仰の一つとは言え、物議を醸すこの主義に対して、私は大変危惧を抱いている一人なのですが、これについては後日別記事で考察を行ってみたいと思っています。

 

【エキュメニカル派】

一方のエキュメニカル派(超教派)とは、「自由主義神学」を基に、あらゆる教派や、更にはキリスト教以外の宗教や思想とも協調する道を探る主義、信仰であり、彼らが重要視するのは、それぞれ個人の持つ理性や主観 であり、神の啓示は軽視される傾向があります。

 

また、科学的な見方(進化論等)を許容し、聖書に記されている天地創造ノアの箱舟バベルの塔、出エジプトにおけるさまざまな奇跡などは、単に「宗教的に有益な寓話」とみなしているようです。

 

更に彼等は、あらゆる宗教や宗派はその80-90% の教えを共有しており、それぞれの持つ、神学的見解であるとか、教義上の解釈などの「僅かな違い」を人間的努力により克服することで、共存できるようになると主張します。救済観に関しては、必ずしもイエス∙キリストの贖罪に拠らずとも人間の救いは可能であるとし、救いの方法は幾通りもありうるとします。結果として他宗派や他宗教に大変寛大な姿勢をとるのがエキュメニカル派の特徴です。

 

結局、自由主義神学の「自由」とは、他との協調のためなら、聖書を思いのままに解釈したり、また都合の悪い部分を削除することなどが、まったく自由であるという意味で用いられているのです。またそうすることによって、歴史を通して続けられてきた宗教戦争に終止符を打って、世界平和をもたらすことができると彼等は考えています。

 

1910年に行われた、エディンバラ宣教会議がエキュメニカル運動の出発点になりました。この会議からエキュメニカル派と福音派の分極化が生じたとされています。1948年, エキュメニカル派はスイス、ジュネーブを本拠地に世界教会協議会を発足させ、全世界的な組織を確立するに至りました。

 

世界的に活動するYMCA (The Young Men’s Christian Association1844年発足) や YWCA (The Young Women’s Christian Association1855年発足) エキュメニカル派キリスト教がその思想的なバックグラウンドとなっています。

 

【まとめ】

以上それぞれの宗派の特徴を簡単に要約してみましたが、ここからは私の個人的所感を書かせていただきます。これらの異なる信仰観を持つ二者のうち、福音派が「羊」で、エキュメニカル派が「やぎ」だという事は、もはや説明する必要も無いくらい明らかです。エキュメニカル主義は、言わばキリスト教の仮面をかぶったニューエイジ思想と言えます。なぜなら、その相対主義的善悪観や、イエス∙キリストの贖罪を軽視する姿勢などがそれを物語っています。また、さまざまな宗教の80-90%の共通部分をくっつけ合わせて一つにしようとするなど、実に浅はかです。それぞれの宗教宗派にとって、その残された10-20%の異なる部分こそが彼等にとって絶対に譲れない内容なのであって、それゆえに歴史を通してさまざまな宗教は熾烈な闘い続けてきたことを知るべきです。そのコアな部分を削り取ってしまったら、宗教には何が残ると言うのでしょうか?

信仰姿勢としての福音主義は正統派である、と見て良いと私は考えていますが、彼等の主張の中にも問題が無いわけではありません。そのひとつが先ほども挙げたディスペンセーション主義ですが、そのほかに「聖書無謬説」つまり、「聖書は完璧で、間違いは一つもない」とする説があります。福音主義と結びついたこの説には大変大きな落とし穴があると言えるでしょう。 これについても、いずれ記事に取り上げたいと考えています。

 

キリスト教をもっと深く知ってみたいと思われた方はクリック
↓↓↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ サンクチュアリ教会へ
にほんブログ村