前回の記事では、今取り沙汰されている、エルサレムにおける、ユダヤ第三神殿の再建が、全く聖書的ではないということを論じました。また、それに加えてユダヤ人は、主イエスを殺害した時点で、すでに選民としての資格を永遠に失ってしまっていること、更に、そうした事実を受け入れず、第三神殿の再建を切望し、異常なほどにイスラエルに肩入れしているのが、ディスペンセーション主義に基づいたキリスト教シオニストであった、ということにも言及しました。
我々は今、人類の本当の敵は誰なのかをはっきりと認識しなければならない時に来ています。キリスト教徒はその本来の敵に立ち向かう、最も強力な群れであるべきです。ところが現在はその力を失いつつあります。狂気の思想、シオニズムは、キリスト教シオニズムとユダヤ教シオニズムとに分けて考察する必要があります。片やイエスをメシアとして信じ、片やイエスに反逆する反キリストだということを忘れてはなりません。
これまで論じたように、創造本然の神ヤーウェは、もはやユダヤ教徒と共にはおられません。だとしたら彼等ユダヤ人が、唯一神として崇拝している神とは一体何なのでしょうか。一元論に基づく信仰によれば、あらゆる森羅万象は、「創造主」と「被造物」という、二つの事象に分類されます。すなわち創造本然の神以外のものを崇拝するということは、結果的に被造物を崇拝することになってしまうのです。ですから端的に言って、反キリスト的ユダヤ教、タルムード∙ユダヤ教は偶像崇拝、ルーシファー崇拝、あるいは悪魔崇拝教という結論に至らざるを得ません。
尚、ユダヤ人を論じる時、よく引き合いに出されるのが、スファラディーとアシュケナジーという、出身の違いによる、ステレオタイプ的な見方です。前者が善玉で、後者が悪玉であるというように。私の考えでは必ずしもその考えは当てはまらないと思っています。と言うのも、アシュケナジー∙ユダヤ人の家庭に生まれ、クリスチャンに改宗した人を私は何人か知っていますが、彼等はどこから見ても立派なクリスチャンです。問題は出身ではなく、どういう信仰をもっているかに尽きると思います。そういう意味において、聖書ではなく、タルムードに最高権威があると主張する異端的ユダヤ教(人)を、ここではタルムード∙ユダヤ教(人)と呼ぶことにします。
そのタルムード∙ユダヤ人が、創造本然の神以外の「神」を拝んでいるならば、パレスチナの地にイスラエル国を再興し、第三神殿を再建しようというシオニズムそのものが、ルーシファー、すなわちサタンの理想郷を建設する目的で進められている運動だということになるのです。イスラエルを新世界秩序の本拠地にしよう、と企んでいるということでしょう。
そして、タルムード∙ユダヤ人は、彼等の(サタンの)理想郷を建設する運動を進めるにあたって、最も障害になるのがキリスト教徒であることを知るに及んで、彼等を無力化するための策を実行に移しました。彼らが好んで使う手は、刺客を敵陣の中に密かに送り込んで、敵の気付かない間に秘密裏に計画を実行し、敵を内部から崩壊させる、ということです。
具体的に言えば、サタンが建設を進める、全人類を奴隷化するための、悪の帝国の建設の障害になるキリスト教徒に、「ユダヤ人は旧約、新約時代を通して、常に神の選民であり続けた」と思い込ませるような教義を、キリスト教の教えの中に忍ばせる、ということです。その結果、それを信じたキリスト教徒は、「ユダヤ人は、メシヤを持ち望むという、我々と同じ信仰目的を持った友人だ」、と考えるよう仕向けられたのでした。本当はサタンの本拠地を建設するのが、彼等の目的であったにもかかわらず、です。
その悪魔の教義こそがまさに、「ディスペンセーション主義」である、ということです。
そして、それらキリスト教徒たちは、単にタルムード∙ユダヤ人は彼等の敵で無いと思い込まされるだけでなく、逆に彼等を積極的に助けるように誘導されてきた来たのです。まさに、イスラエルのエルサレム首都認定に加担したアメリカの福音派クリスチャンは、そのような人たちでした。
<ニューヨークで行われたユダヤ人とキリスト教徒による大会>
キリスト教シオニストたちは、タルムード∙ユダヤ人たちを評してこのように言います。
16世紀以降、世界の覇権は、スペイン、ポルトガルからオランダ、イギリスへと移行し、大陸を渡ってアメリカにやって来たが、まさにユダヤ人たちが移動する先々で、それらの国々が繁栄すると同時に、このような覇権の移動が起こっている歴史的事実を見ても、いかに彼等ユダヤ人が神から祝福を受けた特別な民であることがわかる、と。
しかし、考えてみてください。表向きは聖人を装いながら、謀略、恐喝、殺し、隠蔽、買収などの汚い手口を使いながら、影でこの世に君臨してきた人たちを、どうして神に祝福された特別な民と言えるのでしょうか? それとも、神に選ばれた民ならば、「神の摂理」のためと称して、目的達成のための、どのような手段を用いたとしても、神はお許しになる、とでも言うのでしょうか?
「ディスペンセーション主義」について書くつもりが、少々回り道してしまったようです。しかし本題に入る前に、どうしても押さえておかなければならないポイントを私なりにまとめてみました。